新ドラマTBS系『ペンディングトレイン―8時23分、明日 君と』が始まりましたね。
ところで主役の山田祐貴さんのお父さんがなんと元プロ野球選手だったのをご存じでしたか?
そしてそのお父さんの影響を受けて山田裕貴さんも幼少の頃から野球をやっていたのです。お父さんと同じプロ野球選手にはなりませんでしたが、現在俳優としてバリバリ活躍しており仕事での山田さんの頑張りは野球を通して培われたものだったのです。
今回は山田さんのお父さんのプロ野球選手時代のことや山田親子のエピソードをリサーチしました。
お父さん・山田和利さんのプロフィール
山田裕貴さんのお父さんの名前は山田和利(かずとし)さんと言います。
生年月日 | 1965年6月3日 (57) |
---|---|
身長 / 体重 | 178cm / 82kg |
ポジション | 内野手 |
出身高校 | 東邦高等学校(名古屋市) |
球界入り | 1983年ドラフト4位 |
活躍時期 | 1986〜1995 |
所属履歴 | 中日ドラゴンズ、 広島東洋カープ |
最高年俸 | 2070万円 |
1983年、東邦高校(名古屋市)からドラフト4位で中日ドラゴンズ(本拠地 名古屋市)に入団。
1991年に長島清幸とのトレードで広島カープに移籍。
1996年には若林隆信とのトレードで再び中日ドラゴンズに復帰。
1996年 現役引退。
1997年より二軍打撃コーチに就任。
1998年には一軍の内野守備・走塁コーチ、1991年〜2001年にかけて二軍内野守備・走塁コーチに就任。
二軍野手総合チーフコーチや球団編成を担当するなどして2015年~2021年まで広島の二軍守備・走塁コーチを務める。
現在は野球解説者として活躍。
プロ野球選手としての特徴
怪我に泣いた
1995年には一塁手や外野手として活躍し個人成績もかなり良かったのですがシーズン終盤に故障により戦線離脱しました。
1996年に再び古巣中日ドラゴンズに復帰し、7番の背番号を与えられたのですが、ケガで故障し1軍には定着することなくその年限りで現役を退きました。
俊足
東邦高校野球部ではなんとキャプテンを務めていて、100メートル11秒台を記録しています。
プロ野球入団後は内野、外野と幅広くどのポジションも守れる器用なプレイヤーで俊足だったようです。
1996年、31歳で中日ドラゴンズを引退しましたが、そのまま中日の残り現役時代の守備や走塁の経歴を生かして打撃コーチや走塁コーチを務めていました。
プロ野球選手時代の成績
年度 | 金額 | 球団 | |
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1986 | 370万円 | 中日ドラゴンズ | |
1987 | 400万円 | ||
1988 | 500万円 | ||
1990 | 825万円 | ||
1991 | 920万円 | 広島東洋カープ | |
1992 | 900万円 | ||
1994 | 2070万円 | ||
1995 | 2070万円 |
年棒は下がることなく引退まで地道に上がっていますね。怪我がなければもっと活躍できたことでしょう。
年度別順位 | |||
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年度 | 球団 | 順位 | チーム数 |
1986 | 中日ドラゴンズ | 5位 | 全6チーム |
1987 | 2位 | 全6チーム | |
1988 | 1位 | 全6チーム | |
1990 | 4位 | 全6チーム | |
1991 | 広島東洋カープ | 1位 | 全6チーム |
1992 | 4位 | 全6チーム | |
1994 | 3位 | 全6チーム | |
1995 | 2位 | 全6チーム |
所属チームで2回の優勝を味わっています。いい思い出になったと思います。
本塁打 | 打点 | 安打 | 盗塁 | 試合 | 打率 | ||
1987年 | 0 | 2 | 5 | 1 | 12 | .238 | |
1988年 | 2 | 7 | 41 | 10 | 82 | .268 | |
1990年 | 0 | 3 | 8 | 1 | 29 | .200 | |
1991年 | 0 | 1 | 2 | 0 | 6 | .200 | |
1992年 | 8 | 29 | 75 | 6 | 93 | .282 | |
1994年 | 0 | 7 | 14 | 1 | 49 | .200 | |
1995年 | 12 | 53 | 82 | 2 | 94 | .270 |
個人成績では引退した年のホームラン、安打、打率の成績を見るとまだまだできそうですし過去最高を記録しています。
しかし、故障があったのであきらめざるを得なかったのでしょう。引退は苦渋の決断だったのかと思います。
祐貴さんは野球少年だった
山田裕貴さんですが、プロ野球選手のお父さんに憧れて野球を始めるのは自然の流れですね。
小学3年生から野球を始め主にピッチャーとして活躍していました。
小学校ではリトルリーグ、中学校ではシニアリーグに所属します。
中学生までは父親の背中を追い続け、夢はプロ野球選手でした。
しかし、レギュラーにはなれず、中学3年生のときには、プロ野球選手の夢をあきらめてしまいました。
その理由は、チームメイトからは「プロ野球選手の息子なのに」とプレッシャーをかけられたこと、さらに「自分のレベルではプロ野球選手になれないし、体格やセンスの違いを感じて無理だ」と感じ野球の道を断念してしまいます。(因みに山田裕貴さんと和利さんは同身長)
結局、高校はお父さんと同じ野球の強豪校、東邦高校に進学したのですが、野球部ではなくバレー部に入部したそうです
少年野球時代のエピソードとして実はお父さんとはキャッチボールすらしたことがないほど、野球に関しての教えを受けてこなかったんだそうです。お父さんも子供に無駄にプレッシャーを与えたくなかったのでしょうか。
なんと山田さんの高校時代に通っていた東邦高校は甲子園に出場しています。
山田さんは同級生たちが甲子園に出場し、活躍する姿をスタンドで見て、自分の情けなさに涙しました。
その時山田さんは
あのとき辞めずに続けていたら今もあのときのチームメイトと甲子園に出場できていたかもしれない。
と自分が情けなく感じながらも
よし、役者の道だけはあきらめない
とエネルギーに変えたのでした。
またお父さんから
俺は野球をやれとは言っていない。だけど、お前がやるって言ったことをなんで最後まで続けなかったんだ
と言われたことがありました。
この父親の言葉もあり山田裕貴さんは、やると決めたら最後までやり続けると決意しました。
その後、俳優を志したきっかけについては、
幼少期に父親とあまり会話ができておらず認めてもらいたかったから
自分がやるって決めたことをやめた時ってものすごく後悔するんだなと思った。だから次挑戦するって決めた事は絶対死ぬまで続けようって思ったのがこの俳優のお仕事です。
と語っています。
山田さんが俳優になってからは、お父さんは裕貴さんの活動を応援しているそうです。
涙の始球式
2018年8月10日の中日ドラゴンズ対ヤクルトで山田裕貴さんはお父さんが中日時代につけていた背番号「30」のユニフォームを着て、ナゴヤドームで始球式を行いました。
野球を辞めてしまった後悔もあり、俳優になってから始球式のマウンドに立つことが夢だったとのことです。
始球式の後、山田裕貴さんは感慨深さのあまり目には涙が滲んできました。
野球に対してのお父さんに対してのいろんな思いがあったのかもしれません。
お父さんの同様だったのでしょう。
無骨な昭和の父は恥ずかしいのか決して息子のことを直接褒めませんでした。
ですが山田裕貴さんが出演しているドラマや映画を見て
よく頑張っている
俺にはできないことだから大したもんだ
と褒めていたと言うエピソードがあります。
山田裕貴さんが出演する作品は全てチェックして見ているんだとか。
いい話ですね。
まとめ
最後までやり続けろというお父さんの言葉を胸に、その後は俳優として着々と実力を伸ばしています。
次から次へとライバルが現れる俳優の道はプロ野球選手と同じくらい?厳しいでしょう。
いつも努力を怠ることなくして行かないと消えて行ってしまう実力の世界に身を置くと言うのはお父さんと違った道を歩んでいますが通ずるものがあるのではないでしょうか
今後の益々の山田さんの活躍に期待します。
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