東日本大地震で父親、祖父母をなくした佐々木朗希投手の涙なしでは語れない壮絶エピソード


21歳と言う若さでありながら、WBCでは先発を任され、令和の怪物と呼ばれている佐々木朗希投手。

Instagramより引用

実は東日本大震災の津波でお父さん、祖父母を亡くしているという壮絶な過去があったのです。

一家の大黒柱を失った朗希投手のお母さんは女手一つで佐々木3兄弟を育てあげました。

東日本大震災と言えば今から12年前。朗希投手がまだ9歳の頃でした。

9歳の頃にお父さんを亡くすということはどれだけ辛かったでしょう。

そんな朗希投手の波瀾万丈な生い立ち、そして今をリサーチしていきます。

目次

佐々木朗希投手のプロフィール

Instagramより引用

生年月日:2001年11月3日(20歳)
身長:190cm
体重:85kg
出身地:岩手県陸前高田市
所属:千葉ロッテマリーンズ

朗希投手が野球を始めたのは、小学校3年生の時でした。お兄さんが野球少年団に入っていたので、よくあるお兄さんの影響で始めたそうです。

朗希投手は3人兄弟の真ん中。お兄さんと弟さんがいらっしゃいます。

朗希選手の兄さんは野球が上手く、のちに大船渡高校で4番を打つほどでした。

そんな兄に追いつけるようにと朗希選手も一生懸命野球に取り組んだとのことです。

東日本大震災の被災エピソード

朗希投手は岩手県陸前高田市出身です。陸前高田市は、何度も東日本大震災のニュースで出てきた名前で皆さんも聞き覚えがあると思います。

津波が発生した午後3時前小学校4年生の朗希投手は兄弟3人で津波の被害を避けるべく実家を離れました。

母親の洋子さんは仕事で家を出ていたため、隣の街にいて津波の影響でなかなか自宅に戻れず、子供たちに会ったのは震災の次の日だったとのこと。

この津波で、お父さんとおじいさんおばあさんは他界してしまいました。

朗希選手の自宅は海の近くにあったと言うこともあり、津波に流されてしまったとのことです。

一家の大黒柱をなくした上に住むところもなくなってしまってどんなに悲しかったことでしょう、不安だったでしょう。

とても将来の事などは考えられなかったことでしょうね。9歳の年齢でこのような体験をしたということは、非常に今後の人生大きい影響を及ぼしたと思います。

あの素晴らしい豪速球を投げる誰をも羨む天性の野球センスがありながら、まだ若いのに奢ることもなく、謙虚でいる姿はそこから来たのでしょう。

幼い男の子3人を何もなくなってしまったところから育てあげたお母さんはかなり苦労されたのだと思います。そのようなお母さんの姿を見てきたので、朗希選手は今まで頑張って来れたのだと思います。

佐々木朗希選手の父親功太さん

Instagramより引用

朗希選手の父親の名前は功太さんといいます。人望が厚い人格者でした

夏祭りでは、町内会を率先して盛り上げみんなを引っ張るリーダー的、カリスマ性のある頼りがいのある人気者のお父さんでした。

休みの日には、兄弟3人で野球をして遊ぶほど、佐々木家はみんな野球が大好きだったそうです

そんな気さくで行動力のある父親の背中を見ていた朗希投手も「地元に貢献したい」と言う気持ちが強くなりました。

父親を亡くしてからは、朗希選手の3つ違いのお兄さんが自然と父親の代わりを担うようになっていきました。

しつけの部分では、かなり厳しく、弟たちに接したそうです。

このようなお兄さんの厳しい躾によって、朗希選手は心身ともに鍛え上げられました。

プロに入るまで

Instagramより引用

小さい頃の朗希選手は、ピッチャーだけでなく、打撃センスも抜群、そして足も早く走攻守の3拍子が揃った選手でした。

中学生の頃の朗希選手は、やはり同世代の間ではずば抜けていました。

当時から類まれなる運動センスを発揮しながら、中学生とは思えないレベルで努力することができていたそうです。

住む家がなくなってしまった佐々木家はしばらくは老人ホームでの避難所生活でしたが、その後、母親の親戚がいる大船渡市赤崎町へ引っ越します。

野球の練習をするのもままならない環境下ではありましたがそれでも、野球をやりたいと言う気持ちが強くトレーニングを続けたからこそ、今こうして活躍されているのでしょうね。

高校進学の時期になると、県内外から多く声がかかるほどの有名選手になっていました

しかし、地元で甲子園を目指したいと言う気持ちから、県立大船渡高校へ進学しました。

地元で活躍していたお父さんの血を引いている朗希選手は地元愛が強かったのでしょうね。

「中学時代の仲間たちとまた野球がしたい」

1年生の頃から試合に出場した朗希選手は、大会を重ねるごとに圧倒的存在感を出し、大船渡高校が出場する試合は、観客が殺到する事態となっていました。

3年の甲子園をかけた決勝では、国保監督が朗希選手の故障を心配して試合には出しませんでした。チームは敗退し高校に苦情が殺到しました。

結局、高校3年間で甲子園出場の目標を果たすことが出来ませんでした。

当時、この事は、ニュースでも取り扱われ評論家や野球関係者の間でも大きな話題となりました。

その後ドラフト1位指名で、現在の千葉ロッテマリーンズに入団しました。

津波で震災したことにより、野球の練習もままならない環境でここまで成長したのは、本人の努力はもちろん周りの人に恵まれていたからなんですね。

まとめ

佐々木朗希さんの父親が津波でなくなっていることや、波瀾万丈人生についてお伝えしました。

小学校3年生で父親と祖父母をなくし、母親と兄弟でここまでやってきた。佐々木朗希さん。

母親の女手一つで育て挙げた大変さを身をもって感じ、お兄さんの厳しい躾が今の佐々木選手を作っているのですね。

そしてこのエピソードから強い地元愛の強さが伺われますね。

21歳にして、WBCの代表選手にも選ばれ、お父さんもとっても喜んでいることと思います。

世界に羽ばたく選手になるよう期待しています。

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